歌 海舟・龍馬 豊後路をゆく

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海舟・龍馬思索の道

 再発見・海舟の記録

以前に「海舟・龍馬一行の佐賀関から鶴崎への道が、陸路か海路かは海舟日記に書かれていないが、
この年代の事例から陸路であっただろう」と書きましたがこれを裏付ける海舟の記録が
当会員の佐藤正博氏によって最近東京で発見されました。

 旺盛な探求心が報われた快挙でありましょう。
東京江戸博物館所蔵の「海舟日記抄」に「佐賀関より陸路〜」と明記されていました。
 明治の世となり正史を作成するため『修史舘』が設けられこのとき記録されたものと思われます。

これで大在、坂ノ市の人達にも「ここを海舟・龍馬が歩きました」とはっきり、伝えることが出来ますね。

海舟と伊能忠敬

 忠敬が鶴崎を測量したのは文化七(1810)年で今年は丁度200年目になります。
このとき忠敬は66才(堺屋太一氏式の現代換算にすれば82才)の高齢でしたがその使命感と
エネルギーには全く感服の至り、生き様の模範でありましょう。
鶴崎には2月13日より3日間、和泉屋八衛門宅(東鶴崎3丁目のグループホーム菜の花)を
宿として近隣沿岸を測量しながら南下し、12月30日には肥後街道より再び鶴崎に入り越年しました。
海舟にとって伊能図は航海の必需品でした。               

その記録には姫嶋268里、家島270里、佐賀関267里『勝海舟全集九、海軍歴史U』
(佐賀関の方が家島より3里近い)とあり基点は江戸品川沖よりとなっております。
大河ドラマ龍馬伝での神戸海軍操練所の一場面に伊能図による航海法を龍馬に教える場面が
出てくるのを期待していましたが出なくていささか残念ではありました。 

勝海舟      坂本龍馬
宿泊の地
     文久四年二月一六日

大御代はゆたかなりけり旅枕
一夜の夢を千代の鶴さき
 勝海舟              雲峰 書
                    平成22年5月 鶴崎文化研究会

大分市南鶴崎の鶴崎高校と鶴崎小学校に挟まれた「思索の道」にあります。

                                             

豊後路での龍馬の想い

これまで存在しないといわれていた文久三(1863)年の後半から元治元(1864)年前半の龍馬の
手紙が明らかなった。   
 この元治元年の2月から4月の期間中龍馬は海舟の長崎行きに随行して鶴崎に泊まり、長崎から
の帰りにまた鶴崎を通った期間です。

 指摘されたのは安心院出身の宮川禎一氏(京都国立博物館考古室長)で、再発見と云うのは
「かの小野の小町が名歌よみても」で始まる姉乙女宛の手紙です。
「おとめさまへ、このてがみ人にハけして(決して)けしてみせられんぞよ、かしこ」で終わっている。
 文久3年6月28日 付のこの手紙は実は1年先の元治元年に書かれたというのが宮川氏の説です。
このころの京大坂の情勢、特に池田屋騒動(元治元年6月5日)などの危機から龍馬の憂慮が隱に陽に
伝わってきて なるほどと氏の本を読んで合点出来たした次第であります。
従来の説ではかの有名な『日本を今一度せんたくいたし申し候事』の手紙が6月29日になっているので
連日乙女姉さん宛に出していたことになっており龍馬はなんと筆まめかと思っていたのが「さにあらず」で
この点からも大いに納得出来る説であります。 

龍馬はこの豊後(肥後)街道を海舟と熱く世情を論じ合いながら歩いたのでありましょう。
詳しくは同氏の著書『龍馬の手紙を読む愉しさ』(臨川書店)にあります。なお宮川氏の兄さんは
西鶴崎に在住しておられる。

                                                       北川徹明