歌 海舟・龍馬 豊後路をゆく

   新発見海舟 
鶴崎と幕末の志士

 鶴崎は、大分県大分市の中で海に面した中心地にあり、美しい自然と活気あふれる町並みが特徴です。この鶴崎は、混迷の幕末、我が国を近代化に導き、現今の日本が先進国になる基礎を造った勝海舟とつながりがあります。
勝海舟 坂本龍馬
 勝海舟は、文政六(1823)年、江戸本所に生まれ通称、麟太郎(りんたろう)と呼ばれていました。十三歳で中津藩士の剣道師匠、島田虎之助について修行し、二十歳で免許皆伝を受けました。青年期には、蘭学を学び全五十八巻の日蘭辞書『ズーフハルマ』を、2年かけて筆写し二部完成させています。
 ペリー艦隊来航の攘夷(じょうい)の嵐の中では、対応に苦慮した幕府が対策を公募した際、優れた意見具申をして認められ、幕府中枢入りしました。
 続いて長崎で海軍の技術伝習、遠洋航海術などを6年間で取得。幕府の特使派米の際には、咸臨丸で船長として万延元(1860)年にアメリカへ渡り、見聞を広め、幕政に多くの有益な建議をしました。そうして鶴崎生まれの学者秋山玉山の創設した時習館の俊英、横井小楠を訪ね海軍を論じたところ意見が一致し、将軍家定に海防の必要を説き海軍繰練所を創設しています。
 この時期、海舟を攘夷の敵とみていた坂本龍馬は、海舟邸で面談の際、彼の広い見識と人柄に惚れ門下生となった事は有名です。のちに薩長連合を成功させる龍馬の思想の根底は海舟にあったようです。
 海舟は、薩長、外様、幕臣を問わず海軍繰練所への入門を許し、龍馬をはじめ広く人材を集めて教育しました。そして、内戦の非を説き、鎖港の不利を説くなどした、幕臣でありながら幕政に反する海舟の先見性は、幕閣に容れらず軍艦奉行を罷免されてしまいます。が、しかし一年で復職し、以後、西郷隆盛との談判成立により江戸市民を戦火から救う江戸無血開城を始め、多くの困難に対処し、その功は実に偉大です。その勝海舟が鶴崎を2度訪れているのです。
 坂本龍馬を伴った海舟は文久四(1864)年2月14日に大阪を出航、翌15日、佐賀関入港、徳応寺に宿泊しています。海舟日記によれば「2月16日豊後鶴崎の本陣に宿す、佐賀関より五里、此地、街市、可なり、市は白滝川(大野川)に沿う、山川水清し、川口浅し、」とあり、
 大御代(おおみよ)はゆたかなりけり 旅枕 一夜の夢を 千代の鶴さき
の一句が詠まれています。
 この歌からは当時の情緒あふれる鶴崎の町の風景が浮かび、感慨深いものがあります。また四国艦隊との困難な交渉(下関攻撃阻止)のため、長崎へ赴く途中の難題山積の海舟にとって、鶴崎での龍馬との一夜の語らいの中でこの歌が詠まれたことは、実に感慨深い事です。
 海舟が再び鶴崎に来たのは西南戦争の4年前、明治6年で、このときの目的は、島津久光の慰留の為でした。毛利空桑の日記には、勝海舟より呼び出しがあったとの記事があります。ただ何を話し、何を論じたのかか、その記録は残念ながら遺されていません。幕末の日本を代表する勝海舟が、激動、混沌のこのとき、ゆたかなこの国の未来に夢を馳せ、その想いを、このような歌に詠んだことは、鶴崎にとって、果ては日本にとって実にすばらしい史実であったと言うことが出来ます。
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勝海舟・坂本龍馬の彫像と歌碑を建てる会

海舟・龍馬思索の道

パソコンにたとえれば海舟はハードで龍馬はソフトであろう、そしてその組み合わせがしっかりと出来たのがこの街道の旅であった。 佐賀関、鶴崎、野津原、久住、そして熊本、長崎 までの往復の二ヶ月間の旅路は海舟の豊富な経験と知識、世界観が龍馬に注入されていった旅であった。
小志生木の道標
左さかのせき   右白木村
注入が完了したと同時に龍馬の活躍が始まるのである。海舟の使者として京の西郷吉之助(隆盛)を訪問すると彼と共に鹿児島へ、帰ると直ぐに太宰府の三条実美や五卿に薩長の和解を説くなど七面八飛の行動である。  
幕臣として行動に制約のある海舟の意思は龍馬にインプットされふくらみ新生日本への道が切り開かれていくのである。この旅、豊後(肥後)街道の旅がもし無かったら列強から狙われていた日本国は植民地になっていたかもしれないのである。実に意義深い貴重な街道なのである。この2ヶ月間の二人の旅路が終わって僅か半年後、海舟は江戸へ召喚させられ蟄居の身となり更に、海舟の将軍家茂への直訴によって造られた神戸海軍繰練所も閉鎖となってしまい二人は永遠の別れとなるのである。師弟関係の模範と云われる両雄の想いは鶴崎で詠んだ海舟の歌に込められている。
海舟と龍馬が語り合いながら見たであろう道標。  それは佐賀関小志生木に今も遺る。

北川徹明
             

勝海舟の見た鶴崎

海舟、龍馬と、龍興寺の仇討ち事件とのかゝわり

龍馬の師は海舟であり、海舟の師は横井小楠であった。
海舟談に「今までに天下で恐ろしい人物がいると思ったのが二人いる、それは横井小楠  と西郷隆盛だ」「小楠は他人には悟られない人物で、その臨機応変は只ものでなく、どんなときにも擬態がない。つまり[活理]というものがあった。
そして小楠に就いては更に「恐ろしく聡明な人」と海舟は言っている。
写真は三軒町にあった龍興寺。釘宮勝子 氏蔵
 その小楠が江戸の肥後藩留守居役、吉田平之助の別邸に招かれていたとき、怪漢に襲われた。そこにいたのは吉田、都築四郎、小楠の三人で用談が終わり宴会を始めた頃、覆面、抜刀した怪漢三人が切り込んで来た。 三対三だが座敷の三人はともに大小は床の間に置いていたので、とっさの場合素手で立ち向かうしかない、階段近くにいた小楠は素手では立ち向かえないと、身をかわし素早く階段を駆け下り、表の見張りをたくみにかわして危地をのがれ常磐橋の越前邸に駆け戻り、差し替えの大小をもってとって返した、急を聞いた十人ばかりがあとに続いたが現場にはすでに刺客の姿はなく二人は傷を負っていた。小楠は2人を肥後藩邸に送り届け、翌日、始末書を提出している。のち都築は回復したが重傷の吉田は死亡した。この事件で小楠がこのとき現場から離れたという行動に対して藩内で批判続出、裁断が下され、録の没収が命じられ、小楠は熊本の沼山に蟄居の身となる。海舟が鶴崎から熊本に入ったとき公人の身の海舟は蟄居中の小楠に会すべもなく、龍馬に見舞いに行かせている。また長崎より鶴崎への帰途にも龍馬を行かせて状況報告をし、小楠の甥二人を預かり海軍繰練所に入門させている。
ところで刺客の3人のうち1人は京都南禅寺で切腹、もう1人は長州で暗殺され、残る1人の黒瀬市朗助は行方知れずとなってしまった。
吉田の長子、巳久馬(傳太)は父の怨みを晴らそうと若党一人を連れて仇討ちの旅に出て困苦七年目にしてようやく黒瀬が四国松山に居ることを知り、勇躍、松山に駆けつけたが、松山藩は肥後人である黒瀬を肥後領鶴崎に送り届けることにした。そこで巳久馬は鶴崎にとって返しこれを待ち受け見事に黒瀬の首をはね本懐を遂げたのでした。このときの立会人は鶴崎郡代瀬戸熊助、場所は龍興寺境内(この頃は三軒町にあった、現在は東鶴崎二丁目で大野川の堤防となっている)郡代立ち会いにもとに黒瀬を切り、首を持ち帰って父兵之助の墓前に供えたという。ときに慶応四(1868)年2月3日で公認仇討ちの最後と言われております、 海舟が再び鶴崎を訪れた 明治6年、毛利空桑との 会談でこの事が話題になつたかも知れません。                            

   北川徹明

海舟、龍馬思索の道 2

鶴崎橋たもとの石碑「有終館跡」 と海舟・龍馬とのかかわり

毛利空桑と高田源兵衛の主唱によって洋式の練兵場がつくられたのは年号が明治になったばかりの頃で今は堤防になっている鶴崎橋の附近でした。              幕末の思想家、兵術家として有名な佐久間象山は海舟にとっては師であり、また妹婿でもありました。龍馬もかの吉田松陰も教えを受けたといわれるこの象山は高田源兵衛に斬られ命を落しました。
当時の源兵衛の名は河上彦斎で、ときは元治元(1864)年7月11日でありました。海舟と龍馬が長崎からの帰途鶴崎を通ったのは4月10日ですので3ヶ月後にこの事件が起こったことになります。彦齋は国の為にに必要な人物を斬ったことを悔やみ名を変えたと云われています。
空桑はこの変名後の高田源兵衛や長州の大楽源太郎等の反政府運動に巻き込まれ彼らを庇護した罪により3人の息子と共に熊本で牢獄生活を送る羽目になってしまいます。
明治6年に再び鶴崎の土を踏んだ海舟は空桑との会談の中で高田源兵衛こと河上彦齋ののことも話題にしたのではないでしょうか。

北川徹明

鶴崎の赤ひげ 医師 重浦元暢(通称:しげうらげんちょう)

熊本藩鶴崎詰の船頭、重浦格兵衛の長男として天保2(1831)年に生まれ、大阪で漢学、医学を学び、 のち世情騒然な文久年間、勤王志士の去来する京都で開業、名医として名を高めた。
勤王の志士をかくまい、保護した元暢は、幕史に捕らわれること三度に及び 家も被災した為、騷亂の京をはなれて、郷里鶴崎に帰り医業を開くと忽ち名医の帰郷との評判となり近隣の人々の診療、ひきもきらずであつたという。ときは文久4年4月で海舟とが龍馬が長崎よりの帰路鶴崎を通った頃である。
しかし尚、日進月歩の西洋医学への探求心に燃えた元暢は,妻子を鶴崎にのこし解剖学と伝染病を学ぶため熊本の医学校に入った、 その辛苦勉励の様は、毎夜骸骨を抱いて寐るほどのもであったと伝えられている。
明治8年天然痘が天草で発生した際、同僚とともに 寝食を忘れ40万人に種痘を施した。
のち東京で再び研鑽を積み、鶴崎の人々の要請に応えて郷里
鶴崎で内、外科医を開業、その繁忙ぶりは周辺に宿泊所が出来るほどであつたという。
また元暢は貧困の人々は無料、赤貧者には食べ物や、金銭を与え仁医として評判となつた。
のち衛生組合会を組織、、鶴崎周辺11ヶ村を巡回して衛生講話を行うなど 病気の予防にも力を注いだ、
大野川の眺望は京都の嵐山を彷彿とさせると語っていた元暢は、それに足らないものは桜並木であると、種具、志村一帯に桜を植樹した、しかしその後の度重なる洪水で元暢の桜並木の風景は今は見られない。
また元暢は町村制が発布されると同時に町会議員に当選、大分町設立予定の高等小学校を鶴崎に誘致することに成功、また鶴崎の町が次第に衰微するのを嘆き、港湾の整備、治水、水害防備を計画するなど、その行動力と先見性は町民の期待は大であつた。
書、絵にも造詣が深く、音楽教育にも熱心であつたが、惜しくも明治28(1895)年肝臓病のを煩い逝った。
臨終の様子は鶴崎市史人物編に次のように伝えられている。
「6月7日未明、息に命じて筆硯持ち来させ、墨を磨らせた。既にして天漸く明くるや、南窓の下において、元暢乃ち病床を下り、白の毛氈の上に唐紙を展べさせ、大筆を援きて辞世の和歌を書した」
  六十あまる五つの年をつみながら
     なかにひとつのいさほしなしとは

大きな業績を残しながら、実に謙虚な辞世の句である、医への求道、探求者としての強い想いがにじみ出て実に感銘深い。

熊本の古城医学校で共に学んだ北里柴三郎との写真が遺されている。
現在、大分市城原に在住の黒川美弥子さんは玄暢の曾孫に当たる。

北川徹明

海舟・龍馬の思索の道 肥後(豊後)街道

  海舟、龍馬が鶴崎に来たころの世情
勝海舟が坂本龍馬を伴い鶴崎に来た文久4(1864)年2月16日という時期は、 日本にとって大変な時代であった。
ペリー来航から10年余りのこのとき幕府と朝廷の意思のへだたり、かくひつは容易に解けなかった。            前年(文久3)の2月16日将軍家茂は朝廷からの再三の攘夷、督促使節にこたえる為三千の兵を率いようやく江戸を出発し、3月4日京に入った。 229年ぶりの将軍上洛である。
京都滞在は10日間としていた幕府の予定は朝廷の意向で大きく崩れる。
朝廷の攘夷熱はそんな生ぬるいものではなかった。
賀茂神社への供奉を申しつけられるなどして、従前通りの幕政の続行は認められたが、次には石清水八幡への攘夷戦争祈願の行幸の供奉を命ぜられ、これは病気で断つたため公武合体の成果を上げようと待っていた島津久光や山内容堂は国に帰ってしまった。一方、将軍家茂は5月10日を攘夷決行の日と(朝廷と)取り決め、ようやく一ヶ月後に江戸に帰ったのであった。
一般にこのときの家茂の行動は評価されていないが、絶対必要な決断をしている。それは海舟にとっては千載一遇のチャンス到来であり、海国日本へのスタートとなつた繰練所の建設であった。
家茂は海舟の案内で順動丸に乗船、大阪湾を視察、そのとき海舟は家茂に海防の必要を説き、神戸海軍繰練所の設置を将軍に直談判し、即刻許可をもらい着工している。海舟はこの費用五千両を松平慶永(春嶽)から借りた。
借金の交渉に、龍馬を福井まで使いにやっている。
これから龍馬は繰練所で海舟の懐刀として働くのである。

『勝海舟日記』文久3年4月23日によれば「同所にて繰練局御開き、且、土着の者を置くべき事を言上、直ちに英断あり」と記録しておりまた「いまだ御若年といえども、真に英主の御風あり、且、御勇気盛んなるに恐縮す」と、そのときの喜びを記録している。
 また同年7月2日には生麦事件による鹿児島湾で薩英戦争が勃発、街は砲撃で多くの民家が焼けた。       
 260年に亘る幕政はゆらぎぺリー来航以来、国論の一貫性は全くなく、国を二分、三分しての互いに反目しあい流血の事件が次々と起る最中であつた。諸外国は互いに牽制し合いながら日本への利権や植民地化を狙っていた。 これに対し、ただ単純に攘夷々々と叫ぶ世論のなかにあって海舟は横井小楠の論『夷虜応接大意』に共感、開国して諸藩から広く人材を集め海軍を興し、外国と対等に貿易を行い国力の充実を図るべきであると考えていた。
この思想は頭の固い幕閣の容認するものではなく、海舟は常に煙たがられていた。 
 攘夷のトップにあった長州藩は待ちに待った5月10日が来ると関門海峡を通るアメリカの気船ぺムプローク号に砲撃を加え、続いてフランス船、オランダ軍艦メデューサューサにまでも砲撃した。
オランダ総領事のボルスブルックはメデューサが危険を顧みず下関海峡を通航したことについて後年にこのときの様子を書いている。「熟慮の上、我が国は古くから親交があるのでオランダ船は砲撃されることはないと判断した」とある。しかしその理由だけで強行突破しようとしたのでは無いと思われる。
7月11日(旧暦5月26日)午前7時、オランダ軍艦メデユーサ(木造スクリュー蒸気船 700トン)は海峡に入って進んだとき、長州の軍艦庚申丸、癸甲丸は射程内にメデユーサをとらえ砲撃を加えた、続いて陸上砲台からも一斉に砲門が開かれメヂューサは多数の命中弾を浴び、砲撃戦は一時間半にも及んだが死者4人、重軽傷者5人を出しながら脱出に成功した。        
 オランダ軍艦が下関海峡を通ったことに就いて、日本海 長州藩の砲台と交戦中の事史学会の元綱数道氏はオランダ総領事ボオランダ艦メデューサルスブルックの日記からこれを明らかにして(オランダ国立博物館蔵)いる。それによると「7月8日、長崎のウォシュホール商会での晩餐会で同社所属のペンムプローの船長が下関海峡で受けた砲撃の件を報告した。これに対しメデューサの艦長は我艦は下関を通ることになっているが、もし砲撃を受けたら徹底的に懲らしめてやると演説すると全員が熱狂的に拍手し、乾杯した。私(ボルスブルグ)は熟慮の上オランダ艦が攻撃される事はないと考え下関を通行することにした。翌朝、長崎湾の出口でフランス艦キャンシャンと出会い、下関で受けた砲撃の事を聞いた、これを聞いて艦長は外回りで横浜に行きたいと言ったが、私は艦長の演説の後では今更変更できない。また横浜の同僚より臆病呼ばわりされるより、撃沈される方がましだと言って、艦長に命令書を作成して渡した」とあり「オランダは古くからの親交があり攻撃されることはない」との判断だけでは無かったようである。                        このオランダ艦のことを『幕末の蒸気船物語』に書かれた元綱氏に永年の私の疑問を解決して貰えないかとお願いしたところ丁重なご返事を頂いたのは06年7月9日であった。   
 [疑問]とはこれまでの歴史書はいずれも海舟、龍馬が文久4年に佐賀関まで乗ってきた船名が「翔鶴丸」或いは不明となっており、両人が泊った佐賀関のコ応寺の住職の記録は長崎丸となっていることであった。住職、東光龍譚のスケッチ絵には「長崎丸、乘員70余」とあり、また別紙には軍艦奉行、勝麟太郎と坂本龍馬の名はもはっきりとあり、これまで歴史書は誤りではないかとの疑問でありました。これについては辻野功著『大分学』「移り住むなら豊の国・大分」に詳しく紹介されたのでこれをそのまゝ転記させて頂くと 「日本海事史学会員で『幕末の蒸気船物語』という著作のある元綱数道氏は鶴崎の郷土史家 北川徹明氏からの佐賀関コ応寺住職のスケッチのコピーを添えての問い合わせに対し、「翔鶴丸は外車式蒸気船ですから住職の絵とは異なり」長崎丸と言う舟は三隻あり、「第二長崎丸はスクリュウ式蒸気船であり、また勝海舟著『海軍歴史』によると第二長崎丸は三本マストになっていますので、この点でも絵と一致します」と答え、海舟と龍馬が乗ってきた舟は第二長崎丸であることを明らかにした。         
因みに辻野功氏は2002年4月に大分学を立ち上げられ、私はその第一期生として入門し、大いに触発され、郷土史にのめり込み今日至っている一人であります。       

  文久4四(1864)年 勝海舟と坂本龍馬などが乗ってきた「第二長崎丸」 文久3年英国から購入 した340トンの蒸気船 旧名Shunlee  佐賀関 徳応寺  住職 東光龍譚筆
海舟一行が鶴崎を経て長崎に着いたのが2月23日、長崎での用件は一橋慶喜の命によるものであり、長州藩の砲撃事件に対する四国艦隊の報復攻撃を延期してもらうというのがその役目でありました。延期を承認させ、何らかの方策を講じ中止させようようとしたのでありましょう。
海舟は、和蘭、米、英、各領事と会見し延期は承認され、交渉は成功した。(フランスとは交渉済み)しかし、帰ってきた海舟を待っていたものは慶喜の翻意でありました。
報復延期交渉の条件として提示していたのは横浜開港であつたのが、この交渉の成果を将軍家茂の死を理由に慶喜はぶちこわそうとした。そのため再び横浜鎖港をもち出し「朝議」はなかなか決着がつかず、一橋慶喜、島津久光、山内容堂、伊達宗城らの会議は紛糾し、まず容堂が辞任し、続いてみな辞任し参政会議は海舟の留守中の3月9日に解体してしまった。
海舟は慶喜に裏切られたかたちとなったのである。
長崎より熊本、鶴崎、佐賀関を経て帰った海舟に元治元(1864)5月14日軍艦奉行の沙汰がおり役高は2000石となり諸大夫安房守と称するようになった。
海舟は大局的に日本の将来を考え、海軍繰練所を造った。幕府の権力強化のためのみの海軍繰練所ではない。育成する人材は諸藩、浪士、庶民、幕臣とわけへだてなく入門させた。
これは身分、格式によつて将をきめる武士、特権階級社会の打破であつた。又この頃、幕府に鎖港の非を建言したり、大阪で西郷隆盛と会い、雄藩は連合して国難を乗り切ろうと説得をしている。
幕臣海舟の理想は幕府の意図するところとことごとく食い違い、海舟は十月に江戸に呼び戻されます、それは神戸海軍繰練所の塾生に長州土佐や浪士居てこれが反幕運動を行ったというものであった。
海舟は軍艦奉行を罷免させられ、江戸赤坂氷川邸に閑居の身となってしまった。この幕府の処置を海舟は予知していたとのちに語っている。
フランスに金と兵力を借り長州を討とうとした幕府
海舟は当時、最も世界情勢に詳しかった日本人であったのではなかろうか、当時ヨーロッパの列強がすざましい植民地の強奪競争をやりアジアの諸国、特にインドやシナの人々が苦しんでいることを海舟は知っていた。
特定の外国と特定の関係を持つことの危険を知っていた。そしてその惨状を知っていた。                   海舟は歯に衣を着せぬ性である。
先進列強の諸国は、はじめは甘い条件で言いよってくるが後で骨の髄まで搾られるぞと、フランスとの借金は危険だ、と幕閣に直言している。
前にふれたが、海舟が長崎で交渉を成立させて帰路、鶴崎を通ったのが4月10日であり、このときは軍艦奉行並であった。翌五月に交渉成立の功で軍艦奉行に昇進となった。しかし喜びもつかの間(喜んだかどうか判らないが)十月に罷免させられた。 
実にめまぐるしい。 海舟の失脚で海舟の政敵が権力を握った。小栗忠順、小笠原長行栗本鋤雲らである。彼らはたとえ外国と結託しても幕府を家康時代のように強くし、朝廷の地位を下げ軍備を強化して、いうことの聞かない藩は討つべしという考えの持ち主だった。それはまず長州、次に薩摩、越前、土佐であったであろう。
肥後藩はこのころでは佐幕派が殆どであったので計画にはなかったであろう。
 この幕府とフランスとの密約は直ぐに多くの藩の知るところとなり早々に幕府を討つべしとの声が高まり倒幕の運動が勢いを増したのであった。
幕府の意志に従うことは海舟にとってとうてい不可能であり軍艦奉行の罷免を従容として受けたのであった。しかし世は海舟を最も必要としていた。閑居は7ヶ月間で再び軍艦奉行に復職する。
海舟、龍馬のこのときの道中の語り合いが日本の進路を決めた 佐賀関、鶴崎、野津原 の宿で二人はこの国の将来について熱く語り合ったに違いない。混沌とした社会を一つにするには幕政を脱し新しい制度を造らねばならない、幕府より国家だ。の論に龍馬は海舟に惚れ弟子となった。
本来、幕臣の重要ポストにある海舟が「幕府より国家だ」と脱藩浪人の龍馬に言うべき言葉ではない。
ここが海舟の海舟たる所以である。 
海舟は話すことが好きである、この鶴崎の宿の一夜でも大いに語ったであろう。これより四年前の咸臨丸で太平洋横断した操船体験、サンフランシスコの見聞など、そしてアメリカの政治、共和制について龍馬の次々の質問に答えたであろう。
例えば龍馬は聞く、「勝先生、アメリカ国に将軍はいますかのう」 「それはおるぞ、初代はジヨージワシントン。おれが行ったときは15代だったから今は16代リンカーンという人だ、この国も今南と北で戦争の真っ最中だ」龍馬はまた聞く、「なんの戦争だかのう」海舟は答える、「南と北で社会経済、政策が違って分裂が起こり戦争が始まったんだ、南は奴隷制を保とうとし、北はそれを止めさせようとしている」再び龍馬は聞く。「アメリカ初代大統領は徳川家康のような人と言うならならそのジョージワシントンの子孫は何万石位をいまは貰っていますかのう」海舟は答える「何も貰ってないよ」と こんな会話を鶴崎の一夜でしていたと想像するとすこぶる愉快である。そして全開された龍馬の政治感覚に海舟の知識、体験、理念が注入されていった旅であったのではなかろうか
  大御代はゆたかなりけり旅枕一夜の夢を千代の鶴さき
海舟が鶴崎で詠んだこの一首は混沌とした混乱の世相に光明を見いだしたようであり、情緒豊かな鶴崎の街を想像して感慨深い。
  民のかまどゆたけきものをしらぬいのつくし生てう野津原のさと
この歌は鶴崎から20キロ野津原での歌である。
常に 平和主義者であつた勝海舟
「 欧米に拮抗する力を生み出そうとするならば、藩や、身分の垣根をとり払い貿易を興し國が共有する機関を創らねばならぬ」 という海舟の理念はその後、坂本龍馬らの海援隊に引き継がれた。そして、その後明治となって軍隊が整備され海舟の理念は型の上では実現した。 
 しかし、その目指した方向は、海舟の目指す方向とは違ってくるのである。他のアジア諸国と連帯して欧米列強の侵略に備えるのではなく、逆にアジア諸民族を蔑視するかのごとく欧米に追従し、欧米の植民地化の思想まで受け入れた、海舟の理想は踏みにじられたのであった。
 海舟は、終生他民族への敬意を失わず、理想の旗印を手放そうとしなかった。台湾、朝鮮への侵略的動向に抗議反対して、周辺諸国との連帯の信念を死ぬまで持ち続けたのであつた。
戦争とは国と国とのエゴイズムの争いであって私闘であることを同時代の誰よりも鋭く看破し認識していたのである。
 海舟は日本人同士、同族の争いを危機一髪で二度止めている。もし海舟がいなかったら欧米の植民地に成り下がっていたかも知れないのである。
 一度目は幕府と長州が再び戦端を開こうとした第二次長州征伐の調停である。慶応2年9月2日、海舟は敗色濃い幕府の全権として、安芸の宮島大願寺に単身乗り込み長州の広沢平助など八名と談判し、兵を引かせている。
2度目は江戸城無血開城である、慶応4年(1868)正月鳥羽伏見戦がはじまり、幕府軍は敗退、慶喜も江戸に帰った。新政府軍の江戸包囲の中、総攻撃目前にして西郷隆盛と会見、江戸を戦火から救ったのはあまりにも有名な話である。
海舟の艦長としての評価
江戸品川沖より 豊後佐賀関 267里
家島 270里
姫島   268里
上の数値は海舟使用の海図よりの抜粋である。各港の位置の正確な緯度、経度が示されていなければ、測定出來ない最短の里程である  

東鶴崎3丁目の1 グループホーム 菜の花
日本最初の実測による日本地図をつくった伊能忠敬は文化7年(1810)年2月13日〜15日の3日間ここに宿泊、のち九州南部、天草諸島を測量して熊本より再び鶴崎に来て年を越しました。
余談になるが伊能忠敬の『日本沿海実測録』14巻は文政4(1821)年門弟達により完成、幕府に上呈されているので、航路の決定に大いに貢献したと思われる、忠敬が鶴崎を測量したのは文化7(1810)年66才のときであったので、このときより11年後に完成したことになる。忠敬の死の翌年のことであった。因みに忠敬は鶴崎の和泉屋八衛門宅で宿泊の夜、緯度の計測をしている。
海舟は長崎での33才からの3年半で航海術を習得した、オランダの教師団の長カッテンディ―ケの海舟への能力の評価は絶大で、「私は彼を誠実かつ敬愛すべき人物と見るばかりでなく、また実に革新派の闘士と思っている、要するに、私は幾多の点において彼を尊敬している」と『長崎海軍伝習所の日々』のなかで書いている。
渡米の際にも幾多の困難を艦長海舟は乗り越えねばならなかった 。
まず 無知、無能の幕閣の不当な指示による混乱の収拾であつた。海舟は第一候補に朝陽丸を挙げたがそれは却けられ、観光丸を押しつけられた。その偽装一式が整った段階になって、こんどはアメリカ人の 意見に従ってまた咸臨丸に変更せよと言ってきたのである。海舟は怒った。乗組員への慰撫や設備の調達、設置に苦労したに違いない。しかし幕命に従わざるを得なかった。 また「アメリカ士官3,4人を 乗り込ませたほうがよいのと言う意見があるが、其れは断り、日本人だけで渡航をする決意である」と、佐久間象山に報告していた海舟であったが、これも直前になって覆させられた。海軍大尉ジョン、マーサー以下11名が乗り込むことになり、海舟念願の「何卒一船なりとも我邦人而巳にて洋中に国旗を翻度」 との念願は達せられなかったのである。

海舟伝を書いたアメリカ人

明治37(1904)年ニュ―ヨ―クで『カツ・アワ・日本のビスマルク』
として海舟の伝記が英文で出版された。表題は『KATZ AWA』その下に
「 THE BISMARUCK OF JAPAN 」とあり、さらに 「OR THE STORY OF A NOBLE LIFE 」としてある。「高貴なる生活の物語」という副題がついているところ
に 著者エドワード、ウォーレン、クラーク の著作意図がある、
クラークは海舟を、「キリスト教国、異教国とを問わず、これまで会った何人よりも尊敬する」という。 「 彼はキリスト教徒ではなかったが、彼以上にナザレ人の人格を備えた人を未だかって見たことがない、世界を三周したけれども」
「彼の穏健性、忍耐力は抜群で、また彼の持つ先見性のため多くの人々との間に確執を生み誤解されるがそれを乗り越える能力、苦境中の沈黙、死に対する覚悟、しかも指導者としての注意深さ、彼が一日にして生きると予言したとおり、回天の事業を大成したのも偶然ではない」
「勝安房の政治的手腕として特記すべきは、公武合体を達成し、日本国を統一せる遺業である」と             更に「ビスマルクのドイツ統一は血なまぐさい戦争の結果であるが、勝の場合は平和的手段による。我が米国も1860年代、百万の生命を賭して始めて南北統一を達成した。日本では幕府の謙譲と犠牲的精神により、一挙に王政維新を出現した。地方分権を打破して国内統一を果たしたのは、日、独、米、とも一つであるが、リンカーンやビスマルクと違って、勝は軍略に長じ、300年鍛えに鍛えた武士の後援のもと、自発的な道理と忠義によって、将軍の恭順を引き出した」とある。
勝は平和主義を唱えたため、「先ず勝の首を血祭りにあげよ」という幕臣に囲まれた。しかし「余は正道を歩み、俯仰天地に恥じぬ」 「今無辜の民を救い得るなら、我を犠牲にするのは当然である」として後へ引かなかった。
「人間は一時に両面を見ることは出來ないが、勝にはそれが出來た。勝の勝たる特色はここにある」とも書かれている。
 そして海舟の一生は「富でなく価値を得るために送られた一生」であつた
としめくゝる。明治4年10月、静岡藩学校で3年間教鞭をとったアメリカ人ウォーレン、クラークの言葉である。
海舟の毛利空桑、帆足万里、三浦梅園評
海舟談、『氷川清話より』(海舟は明治5年より23年間赤坂の氷川に住んだ)
「おれが長崎に修業に行った頃、かねて名も聞いておったが、オランダ人さえも、日本の哲学者帆足万里。物理、天文の学者三浦安貞などというので、おれは豊後に廻ってその人を尋ねたが、もはや三浦は寛政の昔故人となり、帆足は嘉永の頃死去せられたというので、帆足の門人の毛利到いう、師匠勝りの気節に富んだ男が豊後の鶴崎に住しているので、おれはその人を尋ねた。 これは当時憂國の傑士で、牢に3年も入れられた男だ。
なかなかのものだったよ。おれはその人から聞くに三浦のごときは20才前後の頃より、思うところがあって、杵築に文殊山という山があるが、その山に籠って、天地の動化を究めんと、考察つぶさに至り、年30にして、ついにその原理を悟道したという人だ。
これは武人でありながら、しかもこのごとき学者であったのだ。日本人よりも、反ってその当時西洋人の方が知っておったよ 。」 と
大分市南鶴崎三丁目大分鶴崎高校に隣接する 毛利空桑記念館の前  「空桑思索の道」の碑 

「毛利空桑」の像空桑は寛政9(1797)年大分市高田常行に生まれ脇蘭室、帆足万里に学び塾「知来館」を開き九州各地、四国、中国からも多くの門人を集め文武両道を説き維新に貢献した人材を育てました。
海舟、龍馬と、鶴崎 龍興寺の仇討ち事件とのかゝわり
龍馬の師は海舟であり、海舟の師は横井小楠であった。
海舟談に「今までに天下で恐ろしい人物がいるものだ思ったのが二人いる、それは横井小楠と西郷隆盛だ」「小楠は他人には悟られない人物で、その臨機応変は只者でなく、どんなときにも擬態がない。つまり[活理]というものがあった。南州はともかく大胆識と大誠意が破格で、その大度洪量は相手の叩く度合いでしか動かない」〜という海舟談の有名な話録がある。
また小楠に就いては特に「恐ろしく聡明な人」と海舟は言っている。
その小楠が江戸の肥後藩留守居役、吉田平之助の別邸で怪漢に襲われたのである。そこにいたのは吉田、都築四郎、小楠の三人である。
用談が終わり宴会を始めた頃、覆面、抜刀した怪漢三人が切り込んで来た 三対三であるが座敷の三人はともに大小は床の間に置いていたので、とっさの場合素手で立ち向かうしかない、階段近くにいた小楠は素手では立ち向かえないと、身をかわし素早く階段を駆け下り、表の見張りをたくみにかわして危地をのがれ常磐橋の越前邸に駆け戻ると、差し替えの大小をもってとって返した、急を聞いた十人ばかりがあとに続いた、現場にはすでに刺客の姿はなく二人は傷を負っていた。小楠は二人を肥後藩邸に送り届け、翌日、始末書を提出している。のち都築は回復したが重傷の吉田は死亡した。
この事件で小楠のこのとき現場から離れたという行動に対して藩内で批判続出、裁断が下され、録の没収が命じられ、小楠は熊本の沼山に蟄居の身となる。海舟が鶴崎から熊本に入ったとき、公人である海舟は蟄居中の小楠に会すべもなく、龍馬に見舞いに行かせている。また長崎より鶴崎への帰途にも龍馬を行かせて状況報告をし、金子を贈り、更に小楠の甥二人を預かり繰練所に入門させている。  (小楠がこの蟄居中に書いた「茶がけ」の複製が筆者の手元にあり常時店内に掛けています)   
ところで刺客の三人のうち一人は京都南禅寺で切腹、もう一人は長州で暗殺された。のこる一人の黒瀬市朗
助は行方知れずとなった。  吉田の長子、巳久馬(傳太)は父の怨みを晴らそうと若党一人を連れて仇討ちの旅に出た。  
七年目にしてようやく黒瀬が四国松山に居ることを知り、勇躍、松山に駆けつけたが、松山藩は肥後人である黒瀬を肥後領鶴崎に送り届けることにした。そこで巳久馬は鶴崎にとって返しこれを待ち受け見事に黒瀬の首をはね本懐を遂げたのであった。
このときの立会人は鶴崎郡代瀬戸熊助、場所は龍興寺境内(この頃は三軒町にあった、現在は東鶴崎二丁目で大野川の堤防となっている)郡代立ち会いにもとに黒瀬を切り、首を持ち帰って父兵之助の墓前に供えた。ときに慶応4(1868)年2月3日で公認仇討ちの最後と言われ昭和9年文藝春秋六月号にこのときの仇討ちの様子が小森武氏によって詳細に描写されている。
明治五年五月、天皇政府に初の任官となり海軍大輔となった海舟は、翌明治六年三月内命により鹿児島に派遣される事となった。佐賀関から鶴崎に着くと毛利空桑を呼び出し会談している。空桑の日記には「勝麟迎えに来る」とだけしかないが、海舟の方は前述のようにそのときの様子をのちに語っている。                              海舟にとって横井小楠は生涯の師であった、その師の運命を翻弄した事件の決着がこの鶴崎でついた事を知っていたのだろうか、二人が対談したときこの事件を話題にしたのだろうか、いまは知るべくもない。   
         
海舟の生い立ち
海舟は文政6(1823)1月30日(陽暦3月3日)旗本ではあるが禄高は僅か40俵の軽輩、勝左右衛門太郎小吉の長男として江戸で生まれた。
 麟太郎である。少年時代は辛苦勉励の生活を送っている。幼年期から親戚の男谷信友の道場に通い、のち浅草新堀に道場を構えていた中津藩士島田虎之助のもとに13才で入門、19になると島田のすすめで牛島の広コ寺というところで4年間、禪の修行をしている。当時の様子を書いた物語った本も多くエピソードの解釈も多少異なるので後年本人が語った修業時代の談話を引用することにする。
この人は世間なみの撃劍家とは違うところがあって、始終「今時みながやりおる剣術は型ばかりだ。折角の事に、足下は眞正の劍術をやりなさい」と言っていた。それからは島田の塾に寄宿して、自分で薪水の労をとって修行した。寒中になると。島田の指図に従うて、毎日稽古がすむと、夕方から稽古着一枚で王子権現に行って夜稽古をした。
何時もも先ず拝殿の礎石に腰をかけて心胆を鍛錬し、また起って木劍を振りまわし、こういう風に夜明けまで56回もやって、それから帰って直ぐに朝稽古をやり、夕方になると、また王子権現にでかけて、一日も怠らなかった。        〜と話している。このころは殆ど24時間の修行で寒中足袋も履かず袷一枚で平気だったと言い。修行の効力は艱難辛苦に耐え勝敗を度外視してことに当たられたのはこの修行のお陰だと語っている。
 努力人、海舟を語るについて有名なのは日蘭辞典『ズーフハルマ』58巻を1年がかりで2組を書き写したことであろう。23才になった海舟は筑前K田藩の蘭学の師、永井青崖の門に入った。
この頃結婚したばかりの海舟は貧乏のどん底であったという。外国語を勉強するにはどうしても辞書がいる。この当時日蘭辞書はこの一種類のみで時価60両だという。海舟には高嶺の花でとても手の出る金額ではない。
 そこで海舟はこれを1年間10両で借り受け、日夜写本に精を出し二組を完成、一組を売り払い、借り料と生活費にあてた。この写本は表装され現存する。このときの心情を「余このとき貧骨に至り、夏夜蚊帳無く、冬夜衾なし、唯、日夜机によって眠る〜〜困苦到千、ここに感激を生じ、一歳中二部の謄写なる。その一部は他にひさぎ、その費を弁ず〜」と記している。
 劍と禪そして蘭学を修めた海舟は銃砲の製作を頼まれるようになり、それを成功させる。そしていよいよ嘉永6(1853)年の黒船の到来となり、海舟の出番となるのである。 ペリーの来航は日本中を震撼させ、幕府はその対応に苦慮して全く対策のめどが立たない状態であった、阿部正弘を中心とした幕閣は広く天下に意見を求めた、それに応じて海舟は幕府に意見書を提出し、多くの中から優れた献策と認められて幕府登用となり大海に乗り出して行くのである。
勝海舟はこの辞書58巻を一年間十両の借り料を払い二組を書き写し、作成した。
驚くべき忍耐力と集中力である。
当時、民と結婚して長女夢が誕生したばかりで極貧の生活であった。
一組を三十両で売って、十両の借り賃を払い二十両は生活費に当てた。

和蘭辞書     ズーフハルマの一頁
海舟日記には 次のごとくある。                                  
 ○14日 
   出帆、一時、海上平穏、少しも風濤なし。時毎に、7里半を進む。
 ○15日 5時
   豊前(豊後)佐賀関、着船。?ち徳応寺へ止宿
   地役人、水夫、火焚きへ酒代遣わす。惣計五両一分。
   〔上覧〕豊後佐賀関五里泊 
   港せまし。上下二所あり、入り口、上の口暗礁あり。山脚に沿うて入るべし                          ○ 16日
   豊後鶴崎の本陣に宿す。佐賀関より五里。此地、街市、可なり。
   市は白滝川に沿う。山川水清し、川口浅し。
 〔上覧〕大御代はゆたかなりけり旅枕一夜の夢を千代の鶴さき
 ○17日 
   野津原に宿す。五里、山の麓にて、人家可ならず、八幡川あり。大抵一里半ばかり、川堤に沿うて路あり。
   海道(街道)広く、田畑厚肥、桃  菜花盛、関東の三月頃の気節なり。
   〔上覧〕民のかまどゆたけきものをしらぬいのつくし生てう野津原の里
 ○ 野津原の宿より出ずれば、山路。この道、久住山を左に見る。
   往時、この宿の村長三輔なる者、山中より水源を引き、三渠を引く。
   これより古田20余町、新田30余町を得たりと、その事業を記し碑あり。   七里。                 
 この日記に記録された一言、一句は当時の状況や町の情緒も汲み取れて意味深いものがあります。           大分市は平成17年1月1日、佐賀関、野津原を合併して大大分市となりましたがこの市を縦断する鶴崎との三カ所に海舟・龍馬が共に宿泊して居ることは実に素晴らしいことであります。そして宿泊のそれぞれの地で歴史に留める宝を遺して呉れております。
佐賀関から長崎への二人の2ヶ月間の旅宿での二人の語らいがこの国の進路を変える舵とりになったであろう事は、当時の状況から間違いの無いことでありましょう。
また全国に海舟・龍馬二人の像を顕すものはまだ無く、この大分市内三カ所に建立すれば更に意義深い事業として全国の注目の的になると信じるものであります。  
ここに特筆すべきは前述のように佐賀関での幕末史を書き換える徳応寺の住職龍潭のスケッチが日本海事史学会の元綱数道氏により認められたことでありましょう。更に鶴崎と野津原で海舟が歌を詠んだことであります。
激動波乱の時期、幕府内でも反対勢力に囲まれた立場にあって火消し役のための道中にこのような万葉的なロマンと希望溢れる歌が詠まれたことは意義深いことでありましょう。
 ○一八日
   久住に宿る。細川候の旅亭。惣体、葺屋、素朴、花美の風なく、庭中泉を引き、末、田野に流る。
   七里地は、久住の山脚にして、殆ど高崇、地味可なり。山泉を引きて左右に導く。
   小流甚だ多く、架する橋は皆石橋、円形に畳み、橋杭なし。導泉、意を用いて左右数所。
   林木これが為に繁茂し、稲、粟、皆実るべし。その巧妙、尽力の到る処殊にに感ずべく、
   英主にあらざれば、この挙興しがたかるべし。他領、公田の雑る所、熊[本]領に及ばず。
   また聞く、この地の南方、導泉の功、この地の比にあらず。或いは山底を貫き、高く噴出せしめ、
   或いは底なしの深谷帰挿し芽、皆田畑の用に応ぜしむと。
○山上より阿蘇嶽を見る。この嶽に並びたる高峯あり。猫ケ嶽云う。人跡到らず。山の頂上、大石、剣の如くなるもの直立す。妙義山に比すれば、更に一層の奇峰なり。
海舟・龍馬の銅像と歌碑を建てよう
私達の年代の子供の頃はほとんどの小学校に二宮金次郎の銅像があり、あの薪を背負って勉強する姿を見ると子供心になんとなく遊んでばかりいると悪いような気がしたものである。銅像は知らず々ゝに風景に精神に影響を与えて続けるもので、その建立の意義を知って貰うには最良の手段でありましょう。                               いま私達は日常の生活のなかで何か大切なものを見失っているようでならない、幕末から明治の混乱、国難の時期、海舟、龍馬を始めとして多くの人々が全知、全能を注ぎこの国を近代国家にしようと命を懸けた。今私達はその余徳に預かって生活しているのでは無かろうか、先の大戦も明治の先人の真の教訓を忘れた軍閥達に起因するようでならない。 
海舟、龍馬、がもし昭和初期に政府の中枢にいたら対朝鮮、対中国政策も大いに変わっていたであろう、そして先の大戦は避けられたのでは無かろうか。
この日本を植民地化から守り近代化の礎をつくり平和主義を貫いた海舟・龍馬の銅像と歌碑を建て、両人の想いを次の世代伝えていく事は実に意義深い事業と信ずるものであります。
この史実を小学生から知って貰うため
  佐賀関には龍譚の絵と海舟・龍馬のレリーフ、中心となる鶴崎に銅像と歌碑
  野津原には同じく歌碑とレリーフを建て、この肥後(豊後)街道を「海舟・龍馬、思索の道(案)」 として
全国にアピールしていきたいと念願するものであります。  
  
ペリーが来た頃の海舟、龍馬
ペリー提督率いる米国東インド艦隊の四隻が浦和に現れたのは嘉永6(1853)年7月8日であった。米国大統領フイルモアの親書を携えての開国要求である、この年、海舟31才、赤坂で蘭学の塾を開くなどして暮らしていたがまだ貧乏旗本の身分であった。 
 このときの様子を 「初めて軍艦が来たのを見に行ったよ六,七人連れで行ったよ大変な騒ぎさ」と「氷川清和」のなかで語っている。
 これより15年ほど前、島田虎之助のもとでに剣の修行を始めると同時に蘭学も始めていて西洋兵学についはある程度の知識はもっていた海舟にとっては黒船は驚きよりも興味の方が優先していたのではなかろうか。     これから世の中なかなか面白くなったぞと思ったかも知れない。
 龍馬の方はどうであったろうか、龍馬が土佐から江戸へ出てきたのは嘉永6(1853)年4月であった。         このとき龍馬19才、直ぐに北辰一刀流千葉道場に入門している。見るもの聞くもの珍らしい龍馬にとって江戸に来て三ヶ月でこの前代未聞の事件に遭遇した。生まれつき世情の動きと情報集めの根性は動物的な龍馬である。「話しを聞くより見るのが一番、」の彼のことである。早速千葉道場の面々と見物に行っている。
余談になるが海舟と龍馬の身長差は大きい海舟は155糎位しかなく、龍馬は180糎近くあったので身長差は25糎近い、しかし見かけと反対に実に共通点が多い、年は12違いで干支は同じ羊年でもあり、この師弟の共通点は未来志向型である、筆者が共通点として一番すばらしいと思うことは、「百聞は一見にしかず」 「虎の尾を踏むことをためらわない」 「対話の場で胸襟を開いて真実を語る」この三点は大事に直面した場合に顕著である。二人の一番の魅力で素晴らしいことは「流血を嫌い平和主義」であることではなかろうか。この二人の共通点が無血の革命、政権委譲の大政奉還が可能となり日本を救ったとも言えるのではなかろうか。
どの船も黒い巨船で巨砲を陸地に向けている。国中大騒ぎとなった200数十年に亘り日本中のどの藩の船も参勤交代の際、将軍のお膝元の江戸湾へ乗り入れたことはない。しかもそれが異国の軍艦で巨砲を装備し蒸気船である。幕府はこれを厳重に禁じていたので江戸の人々は仰天した参勤交代の際、鶴崎から船出していた細川候の波奈之丸も播磨の室津までゝそれから大阪、京、東海道とはるばる20日余り、鶴崎からでは合計40日の旅をしたのである。
想像するに長崎や豊後の人々の前に現れたよりは江戸の驚愕ぶりは大きかったと思われる。                            「太平の眠りを覚ます上喜選たった四杯で夜も眠れず」
一般によく知られたこの句はどの歴史書にもあるが作者の名はない。
  (筆者の家業はお茶屋ですこの句の作者をご存じの方は教えて頂きたい)

当時一般のお茶の品質表示で番茶、喜選、上喜選、池の尾、とランク付けされていた。現在でも使われている地方もあるようだが、このなかの上喜選ー蒸気船をもじったなかなかしゃれた句である。
 お茶の話しになって申し訳ないが、
あの江戸城明け渡しの後、旗本を率い江戸市中取り締まりに任じていた新徴組は将軍守護の親衛隊の意識が高かった。
彼らは江戸城に切り込み官軍と戦い討ち死にする決意であると海舟に迫った。
海舟はそれを留め、静岡の徳川霊廟を守り官軍が攻めてきたら防戦するよう指示、切り込みを留意させて静岡へと向かわせた。彼らは防備を固め襲撃に備えたがいつまで経っても官軍の攻撃はない。当初から海舟はそれを見込んでいたのだった。 彼ら240名の給料は支給され続けられた。隊長、中条景昭はこのままでは心苦しいと海舟に相談、待ってましたとばかり海舟はこれからは殖産で国を富ますのが正しい生き方だとの信条を語り茶園開拓事業を勧める。剣の達人といわれた中条はこれを真摯に受け、先祖伝来の武士を捨て、剣を鍬に持ち替えたのであつた。当初の資金は海舟が提供した。
開拓事業は苦難の連続であったが中条の固い信念と統帥力で見事に大茶園が誕生したのであった。   後年、中条の人物を見込み神奈川県令に推薦することになり使者として山岡鉄舟が選ばれ説得に行ったが「一旦上がった山からは下りぬ。茶の木の肥やしになる」と一笑ににふしたとしたといわれる。その山は現在の牧ノ原大茶園である。島田市と大井川を望む公園に昭和63年10月、中条金之助景昭の銅像が建立された。
私の店も静岡のお茶を仕入れて105年になる。
見たこともない外輪を付けた巨船が悠々と将軍のお膝元に現れたのである江戸の人々は潮流、風に左右されず易々と湾内にに入って来た巨船に驚いた。
特に幕府の驚愕ぶりはペリーの開国要求に打つ手を見つけられず開府以来の威信を捨て広く対策意見を公募したことである。

海舟はこれに意見書を出し認められての幕府入りとなった。やはりそれまでの蘭学の勉強が大いに役立ったのである。因みに当時の細川候の千石舟
    波奈之丸  約長さ  32米   幅 7米   排水量 200トン
    ペリー艦隊4隻は 
    サスケハナ  長さ                 排水量 3824トン  蒸気艦
    ミシシッピ   長さ 67.06米 幅 11.89 排水量 3220トン  蒸気艦
    サラトガ    長さ                 排水量  882トン  帆装スループ
    プリマス    長さ                排水量   989トン  帆装スループ    
 ―次回へ続く―
     参考資料 
   『鶴崎歴史散歩』『西南戦争の記録』『鶴崎商工会議所50年史』    北川徹明
   『勝海舟全集』大口勇次郎編   『勝海舟上下』              勝部真長
   『 勝海舟のすべて』 小西四郎  『勝海舟の海防論』櫛野義明 『勝海舟』 津本陽
   『katu Awa』静岡県立図書館蔵   『鉄舟隨感禄』            安部正人編
   『氷川清話』江藤淳      松浦玲   『伊能忠敬測量隊』      渡辺一郎
   『鶴崎町史』   久多羅木儀一郎         『横井小楠』      圭室諦成
   『勝海舟 海軍歴史』    江藤淳         『氷川清和』     吉本襄
   『勝海舟全集 幕末日記』                     勝海舟全集発行会
   『幕末の蒸気船物語』                             元綱数道
   『坂本龍馬全集』                       平尾道雄  宮地佐一郎
   『龍馬を読む愉しさ』                               宮川禎一