有終館ゆうしゅうかん

鶴崎から兵を発し政府転覆を謀った大楽源太郎
海舟かいしゅう空桑くうそう大楽源太郎たいらくげんたろう河上彦斎かわかみげんさい

 明治四年、毛利空桑が三人の息子たちと共に牢送りとなった原因、それは大楽源太郎を匿った罪でした。 彼は大村益次郎暗殺事件の嫌疑をかけられ鶴崎に逃げて来ました。そのころ、 彦斎げんさい は空桑創設の洋式軍事教練所 「有終館」に藩命により兵隊長として鶴崎に赴任しておりました。その彦斎、空桑を頼って、大楽の一隊が潜伏していた 姫嶋からやってきたのでした。

 彦斎が鶴崎に来た当時の名は高田源兵衛、彦斎は佐久間象山を洋学の第一人者と知 らずに斬り愕然とし自戒反省し改名しました。象山を斬ったのは元治元年(1864)七 月十一日、京の三条木屋町で ありました。海舟・龍馬が佐賀関を出航したのが同年四月 十一日で、大坂着が十三日、海舟はすぐに政務や長崎での状 況説明に多忙を極めていま したが妹婿の象山には四月二十日会っています。しかし海舟日記には「佐久間象山先生を訪 う、時勢海外の形成を談ず。先生、卓識、感服すべきの論無し」と一蹴しています、 余り良い会談では無かったようで す。これより七十日後、殺されるとは海舟もさぞ驚い たでありましょう。

 『坂本龍馬の名が象山砲術門人帖にあります。日付は嘉永六年(1853)十二月 一日に入門と記?されています。龍馬は十九才でした。』

 長州藩は大楽源太郎達を犯罪者として血眼で探していました。 大楽だいらく は彦斎に有終館の兵を貸してくれと頼みます。新政府に反対する運動(* 二卿事件にきょうじけん )を起こす為でした。しかし彦斎は藩の兵は動かせないとそれを断ります。〜が、頼ってきた彼とその仲間一同を見捨てる 事は出来ないと、空桑と彦斎は鶴崎の光福寺、大在の長光寺、坂ノ市の光国寺、佐賀関の徳応寺、などに匿い潜伏させます。

 『まもなくこれは藩庁の知るところとなり有終館(現在の鶴崎橋の附近にありました)は反政府運動に荷担したとみなされ 解散の命がくだりました。彦斎も空桑も逮捕され、空桑は三人の息子と共に熊本の?につながれる運命と なってしまいます。明治四年三月一日のことでした。七十五才と高齢の空桑だけは十一月に鶴崎に戻されますが、家禄没収 のうえ士分剥奪、家は困窮を極め、妻の久多羅木氏は大変な苦労をされたと伝えられております。』

この事件を起こした大楽源太郎は俊才でありました。青年期には広瀬淡窓や僧 月性げっしょう (西郷吉之助の師・僧月照と は別人)に学んで勤王思想を身に付けました。後に西郷吉之助や松蔭門下の久坂玄瑞、頼三樹三郎ら錚々たる面々と交流が あり純粋な長州攘夷派でした。安政の大獄で萩に幽閉されました、が許されて再び京に上り高杉晋作らと尊攘運動に奔走、 慶応元年高杉の下関挙兵に呼応して忠憤隊を組織し、同二年私塾 西山書屋せいざんしょや を開き志士の養成にも努めました。

 しかし、藩の再三の招きにも応ぜずついに明治三年山口を脱出しました。さらに追い打ちをかけるように、門下生が大村 益次郎暗殺に係わったため、首謀者の疑いをかけられ鶴崎に逃げて来たのでした。新政府の追及を受け久留米藩の応変隊に 匿われますが同四年、官兵の探索に隠しきれず同じ長州藩士から筑後川畔で暗殺されます。三十九才でした。

 彦斎について海舟は『* 解難録かいなんろく 』の中で次のように書いています。

 「肥後人川上玄斎(河上彦斎)なるものあり。薩長の下風立つを不好、戊申の際(明治元年維新の内戦のこと) 植野虎弥太、竹添進一、古荘嘉門等を東下せしめ、大に関東人をして戦わしめむとす。予、是に応ぜず。彼等、終に榎本に 説き、脱鑑を助け勸め、奥羽に出して連合せしむ。 ひそか に聞く、其策、奥羽連合して官軍と戦はゞ、両三年は維持すべ く、且、苦戦ならむ。さる時は、薩長国を挙げて是に応ぜむ。他は其、勢を見、勝敗を以て進退を決すの徒なるべし。若然 らむには、其国空虚、中原、更に無人至らむ(京都付近は無警戒になるだろう)。此時を察し、鶴崎より兵を発し、其空虚 をつ衝き、天子を挟み、大いに邦内不是を布告し、人心を鼓舞作興し、不逞を撃て正大の旗を邦内に建てむと。豈思はむや 、会津既に抜 、奥羽解散、玄斎の目算、悉く画餅となる。しかれ然ども、玄斎も亦快男児なるかな。」

 このように海舟は彦斎のその人柄に共感を覚えておりました。空桑もまた時習館の後輩でもあり、宮部鼎蔵を師とした彦斎 を重用していました。

 明治六年の海舟・空桑との会談の際には、維新の犠牲者と云うべきこの二人のことをしんみり話し合ったのではないでしょうか。

 *二卿事件 明治四年(1871))攘夷派の公卿、 愛宕通旭と外山光輔が明治政府  の転覆を謀ったクーデター未遂事件

 *解難録  海舟が明治十七年の夏、旧稿を整理したもので幕末維新期に書いた「解難の書」により構成されている。「解難」と は 困難なことを弁明する、非難に対して弁明するという意味がありますが海舟がどの程度のつもりでこの言葉を使っているの か、その本意は不明です。

 有終館は明治二年、毛利空桑、河上彦斎(高田源兵衛)によって洋式兵学校として鶴崎橋西側造られました。海兵200人、 陸兵100人が教練を受けていました。参勤交代に使われた船の建造、修理などを行った鶴崎作事所も此処にありました。